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二七不動尊の歴史

​明治時代 二七不動の賑わい

二七不動尊の由来(昭和24年からお堂を守った福島秀宝大僧正の遺稿)


今からかぞえれば昔のはなし。昔、明治十二年、ここ番町に直参旗本三千五百石どりの桜井遠江之守屋敷あり、その馬かけ場の一遇に小さな塚があって、その上にお不動さんの祠があった。
その当時は付近の信心げのある人々がたまにお参りに来る程度であまり繁盛しなかったらしく、お不動さんもせっかく信心堅固の者に後利益を呉れてやろうと意気込んでいたが、余り閑なので手持無沙汰でいたところ、たまたま九州から東海道を上ってきた松本某という六部がこのお不動さんの前でいっぷくしているうちにうとうとと仮眠してしまった。

 其の時の夢にお不動さんが「おい乞食坊主、お前がいくら日本中修行したとて名僧智職にはなれないから、この地に止まり私を供養して祈れば、私もお前に衣食住を与えてやろう。」と言われて目が覚めたが、別に気にもせずに出発してから一丁程行くと煙草入れを忘れたのに気付き、引き返し、たばこ入れをとって歩き出した。

 また、一丁ほど来て今度は手拭きを忘れたのに気附き、再び取りに来て今度こそはと祠をあとにして、また一丁程くると一番初めにお不動さんを祈る時使用した念珠を祠の台石に置き忘れたのに驚き三度引き返して取りに来たとき、ようやく先ほどの夢が気になり、どうやら正夢のように思われたのでついにこのお不動さんの前で野宿したのが始めで、やがて掘立小屋を造り、托鉢をしながらお不動さんを祈り供養しているうち、篤信の人が小さな堂を寄進したのに始まってだんだん参詣者もふえて来た。

 それで少しはお不動さんの修行をせにゃんらんと思って修行を重ね、更に二七日の間、断食して荒行した。 以来、二七不動と称し縁日も二、七、十二、十七、二十二、二十七、と月六回の縁日と決めたもので、別にお不動さんが申し渡したものではないらしい。 尤も縁日を多くした方がいろいろ都合がよいとの方便だったかもしれない。

 このお不動さんは、お参りに来るお客さんを大事にしたとみえて信者の願いを良く聞き届け月日を重ねるうちにますます繁盛した。 もっとも、お不動さんの経文中にはこの明文は信心願主のねがいに従って然も利益を多く給うと説かれているから、お不動さんとしては、当然の義務を果たしたわけだ。

 其の後、歳かわり星うつりて、のち堂守がこのお不動さんを神田美土代町の質屋に当時の金で三両で入質したが、其の堂守は野垂れ死にして仕舞ったそうな。
また預かった質屋の主人は眼病に悩み、番頭は蔵の梯子から落ちたのがもとで死んで仕舞ったので、質屋はこのお不動さんを返すという話がきまり、当時の三業柴田見番時代に牛車に赤毛せんを敷いてお不動さんをのせ、木遣り音頭で不動堂へお返ししたという話がある。

其の後改築したり増築したりして堂宇らしくなった時、大正十二年の震災で灰尽に帰したが、再び町内の有志篤信の人々の力で立派な不動堂が再建されたが又々、第二次大戦の戦災で堂宇は焼け出されたが、お不動さんだけは全く無事だったことは信者にとっては誠に不幸中の幸いであった。

 終戦直後鎌倉の有名な寺の堂宇をゆずり受けてきたのが現在の不動堂である。(昭和40年に神崎寺に移築し、観音堂として現存)。

 昔は麹町区内には他に仏堂が全くなかったので、このお不動さんだけが仏法僧の一人じめだったせいか、二七の縁日もなかなかに盛大で縁日商人も百を数え、植木屋の夜店もこと更ににぎやかであったと古老は語っている。

二七不動尊

二七不動はかつて江戸幕府に仕えた直参旗本の桜井氏の屋敷内の小さな石仏不動明王であった。このお不動様が供養されたことにより、二七山不動院という御寺に成長し、現在でも二七通りという道路の名前が残るまでに興隆した歴史がある。 平成17年の火災により二七山不動院は焼失し、

石仏本尊および御前立本尊は10年の間、神崎寺に居を移して

いましたが、平成26年に墨田区太平町に場所を移し、

現在の二七山不動院に祀られ、その伝統は守られている。

ここに語られるのは、戦後、二七不動を興隆させた

福島秀宝大僧正が言い伝えを記録したものである。

焼失した二七山不動院

東郷さんと二七不動尊(昭和24年からお堂を守った福島秀宝大僧正の遺稿)

明治十五年、東郷さんは結婚した翌年に、それまで住んでいた品川の下宿屋から(現在の東郷公園敷地)移り住んだのであるが、たまたま明治二十七、八年の日清戦争が起こり、東郷さんは「浪速」の艦長として出征した際、留守を守っていた母堂(満子)が息子平八郎の武運長久を二七不動尊に祈願してお百度詣でをした。そのことが東郷さんと二七不動尊とのつながりの最初のできごとであった。

 その母堂も明治三十四年に八十歳の天寿を全うして逝去されたのである。ところが日清戦争のあとしまつに絡まる諸問題がこじれてしまい、日露戦争が始まってしまったのである。

 そして明治三十八年五月二十七日、即ち日本の運命を賭けた一大海戦、日本海海戦となり、日本の海戦史はもとより世界の海戦史にもその類例を見ない程の完全な勝利をおさめ、一躍島国日本を世界の日本に昇格させた、日本国民の記念すべき勝利の日であった。

 あのZ旗のもとにつどって、世界最強と言われた当時のロシア大艦隊を撃滅した戦いとその勝利を祈念すべく、以来この日を海軍記念日と定めていたが、第二次大戦による敗戦によって全く打ちわすられてきていることは周知のところである。

 ところで、東郷さんの奥さんは、毎朝このお不動さんに日参し、お百度を踏まれて出陣将兵の無事と勝利を祈願せられていたのである。そして奇くも勝利の日が満願の日、即ち二七の日であったのも単なるう偶然とは言い得ないところとみられているのである。

 その後東郷さんはこのことを知り、自宅にあった楓の木を自ら二七不動堂の境内に手植えられたり、またまたの二七の縁日には直々奥さん共々参拝せられることもしばしばであった。
更に自ら筆をとり、南無大日大聖不動明王と書かれて奉納されるなど、いまもってかたりつたえられているところである。

 また、たまたま大正一二年の震災で堂宇が火災に逢い、お不動さんの安置所に困っていた際、東郷さんは、自分の家が災害を免れたのもこのお不動さんを信心していたためであろうから遠慮なく最も清浄と思うところへ安置しなさいと申されたので、表玄関の高所に不動堂の再建洛慶の日までの八十余日間も安置さしていただいたばかりか毎朝茶湯の御供物も供えられるなど、真心こもったもてなしに、地元町内関係者は東郷さんの心からの配慮に感謝したものである。

 お不動さんが八十余日もの間を玄関使用していた為、東郷さんを訪ねられる高位高官が皆このことを知っているばかりか、その訳を聞き知り東郷さんの御心の深さに感激したといわれる。 そのお不動さんゆかりの東郷さんの御屋敷も現在は千代田区へ寄贈せられ東郷公園と呼ばれてる小公園として保存され、今なお松杉の樹々が蒼々として緑をたたえ、付近の子供たちの良き遊園地となっている

 由来を知らぬ人々にとっては、この小公園が在りし日の東郷さんの御屋敷跡などということは思いもかけず過ぎ去るのであるが、今ここ日本の東郷さん、いや世界の東郷さんの、あの三笠艦上に於いて、不動の精神をもって、おのが信ずるところに従って指揮を取られた決断に今更ながら感銘を新たにしておるものです。

二七山不動院への興隆


昭和24年から二七不動堂に品川寺より堂守として派遣された福島秀宝大僧正は現神崎寺観音堂として残る小さな不動堂において護摩を焚き、人の相談を聞いた。

二七不動の興隆は一つの相談がきっかけとなっている。それは九段に存在した花柳界の人からの人探しの相談であった。秀宝大僧正は『どこの駅に何時に行きなさい』と指示をしたところ、その人は當にその場所その時間に現れたのだそうだ。その噂は花柳界に流れ、多くの相談や御祈願が花柳界から寄せられ、秀宝大僧正は花柳界の有名人となった。秀宝大僧正が町を歩くと、縁起を担いで芸妓衆が大僧正の手を引き、店で一休みするように勧めるほどであった。

観法(おうかがい)と言われる相談に多くの人が訪れるうちに、二七不動に信仰を寄せる人はどんどん増え、昭和40年に立派な御堂を多くの信徒の寄進によって建立し、従来の不動堂は神崎寺に移築し観音堂とした。

この頃になると、後継者となる福島善哉大僧正が京都醍醐寺伝法学院の修行を終えて宗教活動に加わり、ますますの興隆となっていく。時は折しも日本全体が好景気に沸いている、高度経済成長からバブル経済となっていくときである。

秀宝大僧正から宗教活動を受け継いだ善哉大僧正は、二七不動堂における宗教活動を二七山不動院として寺院としての活動にまで成長させ、普門会という信徒会を組織して人々の信仰を不動明王に伝えた。また、秀宝僧正から続く東郷平八郎御屋敷跡である東郷記念公園における火渡り修行をますます興隆させ、関東修験三宝宗務所という修験行者集団を率いて、二七不動の火渡り修行を全国に伝授した。

 

二七山不動院の焼失

大きな興隆を果たした善哉大僧正が平成十五年九月に遷化すると、二七山不動院には僧侶がいなくなり、遺族が住んでいたが平成17年3月9日火災が発生し二七山不動院は焼失し、石仏本尊および御前立本尊は千葉県神崎寺において守られることとなる。

焼失した二七山不動院門前

(旧二七山不動院門前の石仏)

 

 

東郷平八郎記念公園での火渡り修行

二七山不動院の復興 

おおよそ10年のあいだ二七不動尊は神崎寺においてお休みされ、その御堂が用意される日を待っていた。

その頃、京都醍醐寺伝法学院の修行を修め、神崎寺に入られた真勝僧正は秀宝大僧正そして善哉大僧正が行ってきたように山中の修行に験力を求め、護摩を焚き、大寒の冬に水行を勤め、修行を重ねる中,神崎寺にお休みになられる二七不動尊のお告げ「執着を捨て、人の為に、修行を行うならば、時満ちて人を佐る新たな場所をひらく」を聴く。そして平成20年4月29日より二七山不動院復興の願いをたてて護摩祈祷を始める。

願を続けること5年が過ぎるころ、二七山不動院の復興を待つ多くの信徒の気持ちに二七不動尊の霊験が現れ、不思議な縁を集め、縁をつなぎ、篤信の信徒の協力により御堂の用意が整い、平成26年11月30日に二七山不動院が墨田区太平町に復興された。 復興された二七山不動院の落慶法要には関東修験三宝宗務所の行者を始めとして有縁の僧侶により護摩法要が行われ、10年の時を経て二七不動尊の宝前において護摩の浄炎があがった

年号が平成から令和に移り、世界中が新型コロナウィルスによって活動を制限される中において、真勝和尚と有志の信徒は御堂の改築を進め、並行して平成17年の火災時に損傷した本尊二七不動尊の尊像を修復。令和4年にはついに修復された二七不動尊の開眼法要と二七山不動院の最終落慶の祝賀法要が執行された。この尊像修復の際に江戸時代に尊像が彫刻された年号と明治時代に二七不動尊に選ばれし行者 熊本・京町の松本何某の銘を刻んであることが確認され、紛れもなく言い伝えの通りの二七不動尊がここに祀られることが証明された。

七不動尊は​行の強い行者だけが拝することを許される​お不動様です。ここに選ばれし二七山不動院にお詣りください

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